4.0
甦る童心
子どもの頃、近所の駄菓子屋で一日早く発売される少年ジャンプを待ち望みながら生きていた頃、自分がどんなふうに漫画にドキドキしていたのかを、ちょっと思い出した。
大人として偉そうに漫画を「評価」するようになるずっと前の、可愛らしい昂りを思い出した。
そういう作品って、貴重だ。
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15位 ?
子どもの頃、近所の駄菓子屋で一日早く発売される少年ジャンプを待ち望みながら生きていた頃、自分がどんなふうに漫画にドキドキしていたのかを、ちょっと思い出した。
大人として偉そうに漫画を「評価」するようになるずっと前の、可愛らしい昂りを思い出した。
そういう作品って、貴重だ。
「美しさは皮一枚、醜さは骨の髄まで」という意味の英語のことわざがある。
要するに「内面が大事だ」ということなのだろうが、別の捉え方もできる。
それは、光よりも闇が深いように、美しさよりも醜さの方が深い、ということだ。
この漫画を読んで、少しだけわかった気がした。
自分がなぜ、人間の汚さや醜さを描くような漫画や映画や小説に、敢えて触れようとするのか。
私は多分、人の醜さの底知れなさに、歪んだ魅力を感じるのだと思う。
表面の美しさには、限りがある。
少なくとも、時間的な制約からは絶対に逃れられない。
永遠に美しく、は不可能だ。
かさねの口紅の効果が永遠ではないように。
人は、いつまでも美しくあり続けることはできないし、どこまでも美しくなり続けることもできない。
しかし、どこまでも醜くなり続けることはできるのだ、恐ろしいほどに。
かさねの、表面の醜さ。
そして、容姿という運命のハンデに結局のところ負けた、その弱さ。
他人に成り代わってでも光を浴びようとする、そのあさましさ。
一度知ってしまった光の味をどうしても手放せない、その欲深さ。
その限りない醜さに、そして、魂の醜さと反比例するかのように増長してゆく、完璧に表面的な美しさに、ぞくぞくするほど心が昂った。
人の美しさは有限だが、醜さは底なしだ。
その底なしの闇を覗き込む恐ろしさと興奮が、ここにある。
私は、この漫画の行方を見届けたい。
ただ、底なしの闇の片隅に、最後には一欠片でもいいから、幻でもいいから、パンドラの箱に残っていた希望のように、何かの光が残る結末であってほしいと願うのは、甘いだろうか。
ホラー漫画は結構読んだが、サイコものとしての怖さは、ちょっと別格なんじゃないかと思う。
一種の正体不明性と、突っ放したような後味が絶妙に嫌だ。
何がホラーって、座敷女の行動原理が、根本ではさっぱりわからない、ということだ。
例えば、「面白半分で肝試しに行ってひどいめに遭う」とか、「新種のウィルスが蔓延した結果、街にゾンビが溢れる」とか、「過去のちょっとした罪を怨まれて復讐される」とか、そういうある種の因果関係みたいなものが、この漫画にはない。
主人公はただ、運が悪かっただけだ。
正体不明の何かが唐突に現れ、私たちの日常をあっさり崩壊させる。
本当のホラーって、そういうことなんじゃないかと思う。
訳がわからないというのは、とても恐ろしい。
正直、星を五個つけている他の漫画ほど気に入ったわけではないし、人に薦めようとも思わない。
しかし、あまりに独特な作品の空気に、半ば強引に引っ張られてしまった。
元受刑者たちのキャラクター造形の巧みさ。
現実にいたらどう考えても一緒にいたくない人間さえ、何となく許せたり、可愛らしく見えたりしてしまうところに、フィクションとしての力量を感じた。
「本音と建前」を描いた漫画なのだという。
そういう側面は確かにあるが、個人的には、読者に対してとても挑戦的な、悪く言えば、意地の悪い作品だと思った。
だって、考えざるを得ない。
元受刑者たちが来るのが、自分の町だったら、と。
「嫌だよ、勘弁してくれよ」という自己保身のエゴと、「生き方によっては許されるべき過ちもあるのではないか、必死で真っ当に生きようとする人間すら拒絶するのか」という倫理の間で、揺れる。
登場人物が、ではない。
読者が、だ。
登場人物は、そんなにマジで葛藤していない。
だってこれはギャグ漫画なのだ。
よりにもよってギャグ漫画が、読者の良心や倫理観を試そうとする。
そんなのありか。
そして、ギャグ漫画でありながら、「何かとんでもないことが起きるんじゃないか」という不穏な空気が、ずっとある。
暴力や破綻への嫌な予感が、静かな不安感が、絶えずある。
繰り返し、よりにもよって、ギャグ漫画の中で。
私は笑いながら、怯えていた。
いやほんと、何なんだ、これは。
個人的には、絵は全く気にならなかった。
そもそも絵の上手い・下手を論じられる立場に私はいないが、その漫画に「合う絵・合わない絵」は感じることがある。
この作品の場合、少なくとも「合わない絵」ではない気がした。
私があまり読まない種類の漫画だが、結構強烈に引き込まれた。
ストーリーのリアリティーは別にして、主人公の抱える不安や自己嫌悪や、「ここではない世界」に対する漠然とした切望や、木島に対する微妙な感情や、それを「打算」と言い切る潔さや悲しさは、とてもリアルに感じた。
岡崎京子の漫画でワニを飼う話があったと思うけど、カメに餌をやる本作の主人公が「岡崎」なのは、オマージュなのかな。
あと、タイトルが素晴らしい。
スタートで「こういう話かな」と思っていたのを、いい意味で、かなり裏切られた。
「フロム・ダスク・ティル・ドーン」というジャンル崩壊映画があるが、それをちょっと思い出した。
この手の作品は、ジャンルの切り替えが上手く決まらないと「何やねん」という悲惨な出来になるが、なかなかバシッと決まっていたと思う。
また、基本的にはリアリティーもクソもない話だが、主人公のキモい男の「最底辺だけは嫌だ」という信条は、その是非はともかく、現代の価値観としてなかなかリアリティーがあったし、何より、漫画の主人公の価値観として新しさを感じた。
個人的には、「僕たちがやりました」のトビオの「普通でいい」という価値観と双璧である。
そして、この魅力もクソもない主人公でどうすんだよと思いきや、人間に対する観察眼の鋭さや、常人離れした嗅覚という設定を巧みに生かして、意外とカッコよく見せた手腕は、見事と言う他にない。
惜しむらくは、まあ、表紙がひどい。
大真面目にサスペンスをやろうというのではなく、サスペンスと、ギャグと、その際どい中間を狙ったような気がする。
それが悪いとは言わないし、新しい路線を、というガッツは買うのだが、その挑戦が成功しているとは言いがたい。
じゃあどうすればよかったのかは、ちょっとわからないのだが。
焼肉屋と寿司屋が一緒になっている飯屋があるが、私は焼肉が食べたければ焼肉屋に行くし、寿司が食べたければ寿司屋に行く。
学生時代に犯罪心理学をちょっとかじって、古今東西のサイコキラーの書物を読んでいた。
「美しきサイコキラー」なんて、滅多にいない(テッド・バンディなんかは例外だろうけど)。
「美しき女性のサイコキラー」となると、私の知る限り、一人もいない。
別に、現実にいない人物が漫画にいちゃいけないわけではないが、美女のサイコキラーという設定に、私は冷めてしまった。
ファンタジーではなく、あくまで「現実」を舞台に展開する漫画には、こういう逸脱をしてほしくない。
美女のサイコキラーなんかよりも、コナン君の「怪盗キッド」の方が、まだ現実として許容できる。
同じ「裏社会」モノということで、「闇金ウシジマくん」と比較されることがあるが、全く違う。
ウシジマくんは、徹底的に私情を捨てて生きている。
一方、本作の「ヒーロー」二人は、究極的に私情に走って生きている。
どちらがいいとか、面白いとか、そういうことではない。
ただ、私情に生きる二人の方が、いくぶん人間的であるし、また、弱い。
私情に生きる人間は、真に冷酷にはなり得ないからだ。
ウシジマくんを読んだときは、私情を捨てることこそが、この主人公が現代を生き抜くために身につけた必死の手段なのだと思い、胸が熱くなった。
そして、少し、悲しくなった。
「外道の歌」の二人は、時代性とは無縁の、ある意味では古典的な営みを送り続けている。
その愚直さに、胸が熱くなった。
そして、少し、悲しくなった。
打算的な結婚を求めたり、結婚に過剰な夢を抱く人々が、「笑うせえるすまん」的なノリで地獄を見る話かと思ったら、全く違った。
何ともオリジナリティーに溢れる、変化球のハッピーエンドがそこにあった。
現代は、難しい。
ロマンチックな恋愛の延長としての結婚を描けば「現実的じゃない」「夢見すぎ」となるし、かといって、打算だけでは寒すぎる。
そして、どっちを描いても、作品としての新しさは別にない。
薔薇色の結婚は信じられない、鉛色の結婚は信じたくない、そんなワガママな現代において、「恋愛」から始まるのではない「愛」だってあるかもしれないぜ、という結婚の可能性を描いてみせたことには本当に価値があるし、素晴らしいと思った。
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ゾンビ屋れい子