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奇異なバランスは錯覚
典型的な少女漫画、といった風情の可愛らしい絵柄で、血みどろのホラーをやる。
最初は、その奇異なバランスが独特であるような気もした。
しかし、そんなのは錯覚であって、ホラー漫画全盛期の頃には、こういう漫画は、それこそ腐るほどあったのだ。
単純に、ホラー漫画として、私は非常につまらなかった。
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14位 ?
典型的な少女漫画、といった風情の可愛らしい絵柄で、血みどろのホラーをやる。
最初は、その奇異なバランスが独特であるような気もした。
しかし、そんなのは錯覚であって、ホラー漫画全盛期の頃には、こういう漫画は、それこそ腐るほどあったのだ。
単純に、ホラー漫画として、私は非常につまらなかった。
「マサルさん」と「ジャガー」の違いは、と考えると、それは「悪意」の所在なのではないかと思う。
花中島マサルは、いわば「天然」系の主人公だった。
というか、「マサルさん」の登場人物は、誰も彼も天然みたいなものだった。
あれは、誰にも悪意のない、誰も傷つかない、実に優しいギャグ漫画だった。
そういう意味でも、他人を貶して笑いに変えることがまかり通るこの世の中で、「マサルさん」は偉大な作品だったと思う。
しかし、ジャガーさんは全く違う。
彼は、悪意に満ちている。
ジャガーさんどころか、ハマーにも、ロボットのハミィにすら、悪意がある。
「ジャガー」は、「マサルさん」に比べて、かなりの毒を含む漫画であると思う。
しかし、その悪意や毒を、読者に全く「毒」とは感じさせない。
ジャガーさんがどれほど悪意に満ちた悪行をはたらこうとも、あくまでそれは、漫画の中では、優しく、マニアックでありながら妙にポップで、爽やかですらあるギャグへと昇華されている。
このあたりが、うすた京介の稀有な才能なのではないかと思う。
当時、中学生で少年ジャンプを読んでいた私たちにとって、この漫画が与えた楽しさと衝撃は、尋常ではなかった。
ジャンプの発売日の翌日、私たちは登校すると、真っ先に今週号の「マサルさん」について話した。
同時期の連載に「スラムダンク」も「ダイの大冒険」も「るろうに剣心」もあったのに、何よりも「マサルさん」について話した。
シュール・ギャグ、ナンセンス・ギャグ、呼び方は色々あるのだろうが、「マサルさん」の破壊力はあまりに斬新で、それは、私たちの世界にあった「笑い」のあり方を、すっかり変えてしまったのだった。
それはほとんど、革命だった、と言ってよい。
そんな漫画を、他に思いつけない。
私は、あるいは私たちはもう、十年以上、「マサルさん」を読んでいない。
しかし、今でもときどき、妻が私に、この漫画の言い回しを真似て語りかけてくることがある。
革命、というのは、そういうことである。
半端なレベルの整形ではなく、顔に「さようなら」レベルの変化というのは、文字どおり「自分を捨てる」ことに他ならないと思う。
それを別に肯定も否定もしない。
ただ、そういう人生の選択もあってよい、とは思う。
しかしもちろん、そんなこと、生半可な意志や覚悟で出来るものではない。
ましてやその目的が復讐となれば、魂のかなりの部分を悪魔に売り渡さない限り、無理である。
そういう暗く激しい力みたいなものは、この漫画の主人公からは全く感じられず、私はさっぱり入り込めなかった。
嗚呼、もう、懐かしさで心が震える。
ジャンプの「ホラー枠」といえば、これだった。
基本的には「世にも奇妙な物語」系のオムニバス・ホラーで、今となっては珍しくも何ともないけれど、当時の少年誌の読者にとっては、漫画としてとても新鮮に感じられた。
ホラー好きな少年漫画読者としては、もう、たまらなかった。
当時、より大きな漫画のマーケットで見れば、ホラー漫画自体が流行っていたけれど、いわゆるホラー漫画雑誌に載っていたホラー漫画とは、明確に違った。
それは、本作が、あくまで「少年漫画」の文脈を守っていたことだ。
ホラーは、怖がらせたり不安にさせたりするのが本分だから、当然、善人が決まってみんなハッピーになってはいけない。
何の罪もないキャラクターが、不条理に酷い目に遭うのがホラーなのだ。
だが、「アウターゾーン」は違う。
善良な生き方をしていれば、必ず報われる。
そういう漫画だった。
それは本来、ホラーとしては失格なのだ。
しかし、本作は、ホラー漫画である以前に、少年漫画であることを選んだのだと思う。
本作のアプローチは、ホラー漫画としては甘すぎても、少年漫画としては正しいと思うし、そういう甘ったるいホラーの温かさが、私は好きであった。
昔は結構、夢中で読んだ。
今となっては、なぜそんなに夢中になれたかピンとこないのが残念だが、多分、当時は、漫画の表現として、それだけ新鮮だったのだろう。
思えば、漫画としてこういう方向性のグロテスク表現を、ポップでスタイリッシュなレベルまで押し上げたのは、この作品が最初だったのではないかと思う。
そして、そのグロテスクには、確かな覚悟があった。
単なるショッキングな「客寄せ」としてグロを描くのではなく、「徹底してグロを描かなければ、表現したい世界を構築できない。そのためには、どんな非難も受けて立つ」という、覚悟である。
この一点は、素晴らしい。
それは、本作以降、雨後の筍のごとく乱立された、信念なきグロとは、根本的に違っていた。
単行本の一巻を読めば、それはわかる。
だからこそ、この漫画のグロテスクには、比類なき美しさがあった。
しかし、残念ながら、作品トータルで見ると、面白かったのは序盤だけだった気がする。
後半はもう、大風呂敷を広げすぎて、何がしたいのかさっぱりわからなくなってしまった。
おそらく、それは作者サイドも同じだったのではなかろうか。
夫婦生活の有無がクローズアップされているけれど、それは、この漫画が提示している問題の一部でしかない気がする。
これは結局、「ある時期」を過ぎた大人が、どう生きていこうか、あるいは、夫婦として、どう暮らしていこうか、という話だと思った。
「幸せかもしれないけれど、何か満たされない」という微妙な渇き。
ないものねだりのようでもあり、でも、笑い飛ばすこともできない、「こんなのじゃないんだ」という違和感。
そんな、大人の感情の機微みたいなものが、なかなか巧みに表現されていた。
まあ、わかる。
私だけではなくて、多分、多くの大人の読者が、まあ、わかる、と感じたのではなかろうか。
「自分の人生は本当にこれでいいのだろうか」というような不穏で切ない大人の感傷みたいなものは、ある程度の年月を生きてきた大人であれば、程度の差こそあれ、持つものだと思う。
ただ、主人公の女性に対して決定的に賛成できないのは、「あの頃」あったものを「取り戻したい」という願望である。
それはきっと、取り戻せない。
というか、取り戻せないからこそ、価値のあるものだったのだし、全ての価値あるものは、本来、そういうことなのではなかろうか。
どんなに悲しくても惨めでも、取り戻したりは出来ないから、だからまた、二人で、新しい何かを作ろうね、と。
あの頃と同じ遊び方はもう出来ないけれど、あの頃は出来なかったような遊び方を、いつまでも一緒に探そうね、と。
私は、夫婦って、そういうものだと思うのだけれど。
ネット上では一時期有名になった都市伝説、「杉沢村」を下敷きにしたようなストーリー。
題材としては好みの部類なのだが、申し訳ない、絵がどうにも駄目だった。
絵が上手いとか下手とか以前の問題として、特にホラー漫画には、どうしても「合う絵」と「合わない絵」があると私は思っていて、この漫画の登場人物の描き方は、致命的に思われた。
どんなに怖そうなストーリーのホラー映画でも、主演がアーノルド・シュワルツェネッガーとかシルベスタ・スタローンとかだったら、駄目でしょう。
そういうことである。
14年前の事件の凶悪犯が出所し、小さな集落を訪れたことから、そこで暮らす人々の人生の歯車が狂い始める、というストーリー。
あまりに素晴らしいサスペンスで、全く目が離せない。
テンポよく、スリリングで、しかも極めて安定感のある展開、みなぎる緊迫感と立ち込める不穏さ、丁寧で奥深いキャラクターの造形、サスペンス漫画として何もかもが見事だが、強烈なリアリティーを力強く支えているのは、圧倒的なレベルのディテールだ。
例えば、凶悪犯の「名前」の件。
登場時、14年前とは、名字が変わっている。
これを「偽名」だと主人公サイドは見抜くわけだが、読者サイドとしては、「そんなに簡単に名前を変えられるのか?」という小さな引っかかりは残る。
本筋とそこまで関係なさそうだし、まあいいか、と私なんかは思うのだが、この漫画は、そういう細部をツメにツメる。
「小さな引っかかり」をおろそかにせず、徹底的に拾い上げて、しかもそのディテールをいつの間にか本筋に繋げる。
この上手さを何と言えばいいのか。
私などの言葉では伝わらない。
もう、読んでもらうしかない。
些細なことと言えば些細なことだが、結局のところ、作品の完成度を左右するのは、そういう些細なことの集積なのではなかろうか。
特に、伏線がものをいうサスペンスでは、なおさらである。
その点、この漫画の気合いと緻密さは凄まじい。
「神は細部に宿る」とは、こういう作品のためにある言葉だろう。
完全無欠のディテールに支えられた、唯一無二の傑作。
サスペンス漫画ファンは、必読である。
夫に浮気された妻たちの体験談を漫画化したオムニバス。
テンポよく、サクサク読める。
漫画的な演出は少なく、特別にドラマチックではないのだけれど、よくも悪くも現実とは「そんなもの」なのかもしれず、そういう意味では、一定のリアリティーはあった。
人生だから、嫌なこともある。
パートナーに浮気されるなんて経験は、誰だってしたくはない。
けれど、人生の全ての嫌な経験について大切なことは、そこから何を学ぶか、ということなのだろう(もちろん、それは簡単ではないのだけれど)。
この漫画の登場人物たちは皆、夫の浮気から、何かを学んでゆく。
それは例えば、新しい夫婦の関係性であったり、自分がどういう人間であるか(あるいはどういう人間になれるか)という発見であったり、相手がそもそも自分にとって本当に価値のある人間ではなかったのだという認識であったり。
それを「学んだ」ことが、はたして幸せだったのかは、わからない。
しかし、夫に浮気されようがされまいが、人生は続くのだ。
その点、本作は、浮気をただスキャンダラスに描いた漫画ではなく、浮気された「後」の人生をどう生き抜くか、というテーマを一貫して綴っている。
そういう意味で、「処方せん」というタイトルは、結構、的を射ているのかもしれない。
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