3.0
愛を理解できない者の暴走 との闘い
至極京のいうところの【自己革命】、とは何だろう。 まぁ、糞ほどのものだろうが...
意味も無く命を奪うこと、によって、至極京は、自分の求めるものが見つかる、とでも期待しているのだろうか...
漆間俊は、愛を知っている。確かに、決してやってはいけない犯罪を犯したけれども、そこに至るまでの、彼に降りかかった苛烈な地獄、愛する者、大切なものたち、家族(両親のみならず、弟と祖父を目の前で惨○されるなど)、猫🐱、白川要、など、至極京によって命を奪われて、一人罪を背負い投獄もされる。底の見えない絶望を味わう。
一方、至極京のように愛を知らないと、何ものも、大切にすることができない。どう扱ったら良いのか、正しいことがわからない。自分がどうすべきかがわからない。愛を理解できない、慈しむこと、大切にすることが理解できない。おそらく自分をも愛せない、大切にできないはず。そして行きどころの見えない自己の衝動の暴走が止まらなくなるのではないか。
愛を理解できる者とならば、まともに対峙ができるのだが、.....至極京とは、 無理だ。
この作品では、人の心の不安感、迷い、隙間を狙った宗教?スピリチュアルを駆使して至極京の行き場を失っている衝動が暴走するばかりの地獄絵図が繰り広げられる。
ただひたすら胸糞悪い話、ではあるが、人が想像できることは漏れなく現実に起こり得るのではないか。恐ろしいことではあるが。他人事では無い。
至極京との闘いは、愛を理解できない者の行き場の無い衝動との闘い、悪魔レベルの魂との闘い。魑魅魍魎との闘い。
漆間俊は、これまでに流された血にまみれた十字架を背負い闘い続ける。私は、心虚無にして、漆間俊と悪魔との闘いの行く末を見守ることだけしかできない.....
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