5.0
時代性と普遍性
ネット配信を利用した愉快犯による劇場型の犯行、という極めて現代的な舞台装置だが、核のところにあったのは、時代性などとは無縁の、人間の普遍的な強さや美しさみたいなものだった。
時代に乗っかって始まり、時代に左右されない核心にたどり着く。
その返し技があまりに綺麗に決まりすぎていて、ちょっとムカつくほど感心した。
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32位 ?
ネット配信を利用した愉快犯による劇場型の犯行、という極めて現代的な舞台装置だが、核のところにあったのは、時代性などとは無縁の、人間の普遍的な強さや美しさみたいなものだった。
時代に乗っかって始まり、時代に左右されない核心にたどり着く。
その返し技があまりに綺麗に決まりすぎていて、ちょっとムカつくほど感心した。
「この世」と「あの世」の間に設けられたモラトリアムのような世界を舞台に綴られる、様々な人間たちの死に様と生き様。
まず、ひとつひとつのエピソードの完成度が非常に高く、読み手に喚起する感情も実に多様だ。
温かさ、哀しさ、怖さ、悔しさ、切なさ、やりきれなさ。
死の物語でありながら、そこにあるのは、私たちが生きてゆくことにまつわる全てであるように思う。
いかに死んだかということと、いかに生きたかということは、ある意味では、きっと、等価なのだろう。
また、基本的には短く完結する短編集的な作品でありながら、死役所の職員たちの背景を少しずつ描いていくことで、読者の関心を持続させているのもポイントが高い。
特に、シ村の生前に何があったのか、という謎の吸引力は素晴らしく、これほど続きが気になるオムニバスもあまりないだろうと思う。
本来はタイプの顔じゃないのに、付き合ってしばらくしたら、可愛くて仕方がなくなる、なんてこと、ありますよね。
何が言いたいのかというと、福本氏の「絵」
が、その現象と似ている、ということである。
でもそれは、漫画の世界では、かなりのハンデ戦だ。
まことに失礼なことを言うが、少なくとも絵を見て「読みたい」と感じさせる漫画では全くないと思う。
漫画は、雑に言えば、絵と文字だ。
その絵に、魅力がない。
正確には、この絵に魅力を感じるのは、読んで、この世界に引き込まれた後の話であり、入り口での魅力ではない。
そういう「飛車角落ち」のような勝負を漫画という賭場で仕掛け、それに勝利した福本氏は、本当に凄いと思う。
「そんなギャンブル、ありかよ」と作品の中で何度も感嘆したが、一番のギャンブルは、福本氏が「漫画」を選択したという、その事実ではなかろうか。
ざわ…ざわ…
カイジ本編で強烈な印象を与えた利根川を主人公にしたスピンオフ……!
どんな悪の美学を見せつけてくれるかと思いきや……意外……!
作品の内容は……コメディ……!
圧倒的コメディ……!
別の作者にも関わらず、オリジナルと変わらない絵柄で、カイジ好きならニヤリとすること間違いなし……この魅力……悪魔的だ……!
では、オリジナルを知らなければ楽しめないのか……?
そうでもないっ……!
初見の読者に対しても、決して排他的ではない……!
僥倖……まさしく僥倖……!
ならば、カイジを知らなくても読むべきか……?
だが………駄目っ………!
それこそが罠っ………!
先にスピンオフを読むなど……悪手……これ以上ない悪手……!
あくまで、オリジナルありきだっ……!
その後で読んでこそ、この漫画は輝く……!
ざわ…ざわ……
映画「スタンド・バイ・ミー」を観るといつも思う。
そこにいる少年たちは、自分の少年時代とは絶対的に違うのに、そこにある何かは、絶対的に自分の少年時代のものだな、と。
この漫画に対しても、同じことを感じた。
私の、というか多くの読者の思春期は、さすがにここまで歪んではいなかったはずだ。
にもかかわらず、この漫画にあるのは、私の歪みであり、あなたの歪みである。
「黒歴史だよね」なんて飲み会で笑って話せるレベルではない思春期の記憶を持つあなたに、この漫画は、きっと刺さる。
今さらどうにもならない、甘くて苦い記憶を、感傷を、行き場のなさを、顕微鏡並みの倍率で誇張して見せつけたような作品であって、だから私は、この漫画を無視できない。
恐ろしく歪んだ「スタンド・バイ・ミー」のような名作。
「美しさは皮一枚、醜さは骨の髄まで」という意味の英語のことわざがある。
要するに「内面が大事だ」ということなのだろうが、別の捉え方もできる。
それは、光よりも闇が深いように、美しさよりも醜さの方が深い、ということだ。
この漫画を読んで、少しだけわかった気がした。
自分がなぜ、人間の汚さや醜さを描くような漫画や映画や小説に、敢えて触れようとするのか。
私は多分、人の醜さの底知れなさに、歪んだ魅力を感じるのだと思う。
表面の美しさには、限りがある。
少なくとも、時間的な制約からは絶対に逃れられない。
永遠に美しく、は不可能だ。
かさねの口紅の効果が永遠ではないように。
人は、いつまでも美しくあり続けることはできないし、どこまでも美しくなり続けることもできない。
しかし、どこまでも醜くなり続けることはできるのだ、恐ろしいほどに。
かさねの、表面の醜さ。
そして、容姿という運命のハンデに結局のところ負けた、その弱さ。
他人に成り代わってでも光を浴びようとする、そのあさましさ。
一度知ってしまった光の味をどうしても手放せない、その欲深さ。
その限りない醜さに、そして、魂の醜さと反比例するかのように増長してゆく、完璧に表面的な美しさに、ぞくぞくするほど心が昂った。
人の美しさは有限だが、醜さは底なしだ。
その底なしの闇を覗き込む恐ろしさと興奮が、ここにある。
私は、この漫画の行方を見届けたい。
ただ、底なしの闇の片隅に、最後には一欠片でもいいから、幻でもいいから、パンドラの箱に残っていた希望のように、何かの光が残る結末であってほしいと願うのは、甘いだろうか。
ホラー漫画は結構読んだが、サイコものとしての怖さは、ちょっと別格なんじゃないかと思う。
一種の正体不明性と、突っ放したような後味が絶妙に嫌だ。
何がホラーって、座敷女の行動原理が、根本ではさっぱりわからない、ということだ。
例えば、「面白半分で肝試しに行ってひどいめに遭う」とか、「新種のウィルスが蔓延した結果、街にゾンビが溢れる」とか、「過去のちょっとした罪を怨まれて復讐される」とか、そういうある種の因果関係みたいなものが、この漫画にはない。
主人公はただ、運が悪かっただけだ。
正体不明の何かが唐突に現れ、私たちの日常をあっさり崩壊させる。
本当のホラーって、そういうことなんじゃないかと思う。
訳がわからないというのは、とても恐ろしい。
正直、星を五個つけている他の漫画ほど気に入ったわけではないし、人に薦めようとも思わない。
しかし、あまりに独特な作品の空気に、半ば強引に引っ張られてしまった。
元受刑者たちのキャラクター造形の巧みさ。
現実にいたらどう考えても一緒にいたくない人間さえ、何となく許せたり、可愛らしく見えたりしてしまうところに、フィクションとしての力量を感じた。
「本音と建前」を描いた漫画なのだという。
そういう側面は確かにあるが、個人的には、読者に対してとても挑戦的な、悪く言えば、意地の悪い作品だと思った。
だって、考えざるを得ない。
元受刑者たちが来るのが、自分の町だったら、と。
「嫌だよ、勘弁してくれよ」という自己保身のエゴと、「生き方によっては許されるべき過ちもあるのではないか、必死で真っ当に生きようとする人間すら拒絶するのか」という倫理の間で、揺れる。
登場人物が、ではない。
読者が、だ。
登場人物は、そんなにマジで葛藤していない。
だってこれはギャグ漫画なのだ。
よりにもよってギャグ漫画が、読者の良心や倫理観を試そうとする。
そんなのありか。
そして、ギャグ漫画でありながら、「何かとんでもないことが起きるんじゃないか」という不穏な空気が、ずっとある。
暴力や破綻への嫌な予感が、静かな不安感が、絶えずある。
繰り返し、よりにもよって、ギャグ漫画の中で。
私は笑いながら、怯えていた。
いやほんと、何なんだ、これは。
打算的な結婚を求めたり、結婚に過剰な夢を抱く人々が、「笑うせえるすまん」的なノリで地獄を見る話かと思ったら、全く違った。
何ともオリジナリティーに溢れる、変化球のハッピーエンドがそこにあった。
現代は、難しい。
ロマンチックな恋愛の延長としての結婚を描けば「現実的じゃない」「夢見すぎ」となるし、かといって、打算だけでは寒すぎる。
そして、どっちを描いても、作品としての新しさは別にない。
薔薇色の結婚は信じられない、鉛色の結婚は信じたくない、そんなワガママな現代において、「恋愛」から始まるのではない「愛」だってあるかもしれないぜ、という結婚の可能性を描いてみせたことには本当に価値があるし、素晴らしいと思った。
ジョジョはみんな好きだが、中でも四部が一番好きだ。
まず、圧倒的に「敵」の規模が小さい。
吉良吉影は、ディオやプッチ神父のような世界を変えかねない存在ではなく、「静かに暮らしたい」だけの変態である。
このスケールの小ささがいい。
仗助君たちのやることも実に呑気で、ネズミを狩るわ、イタリア料理店に行くわ、チンチロリンでイカサマをやるわ、ジャンケンに命をかけるわ、という有り様である。
この平和さがいい。
ジョジョの奇妙な「大冒険」もいいが、小さな日常の冒険が詰まったような四部が、私は好きだ。
余談だが、学生時代、いつか子どもが生まれたら、「仗助」と名づけようと半ば本気で思っていた。
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