5.0
神は細部に宿る
今回は「ゴッドファーザー」を下敷きにしたマフィアもの。
「いつものジョジョ」の楽しさももちろんあるが、舞台であるイタリアに対する荒木飛呂彦の徹底したリサーチぶりが素晴らしい。
その姿勢、やはり、荒木飛呂彦は岸辺露伴だよな、と思った。
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今回は「ゴッドファーザー」を下敷きにしたマフィアもの。
「いつものジョジョ」の楽しさももちろんあるが、舞台であるイタリアに対する荒木飛呂彦の徹底したリサーチぶりが素晴らしい。
その姿勢、やはり、荒木飛呂彦は岸辺露伴だよな、と思った。
とても素晴らしい作品集だと思ったのだが、上手く言葉を探せなかった。
ここまで言葉が出てこないことは珍しい。
私は自らの言葉の乏しさに久しぶりに失望した。
何なんだろう、これは。
多分、突出しているのは、バランスなのだと思う。
登場人物(特に女性)の切実な感情や、繊細な揺れといったものを、決して重くならない中で、かといって軽々しくでもなく、あくまでゆるく、ふわっと、スライムのような質感で描く、という絶妙なバランス。
本当はもっと「笑えない」類のシリアスな物事が、SFだったり、巨大ヒーローだったり、UMAだったりによってある種のパロディ的な方向に緩和されているが、ポップな中で、核となる生傷の痛みのようなものは鮮やかに息づいたままである、という奇異なバランス。
天秤の両方に同じものを載せてつり合っている、という種類のバランスではなく、小さな金塊と巨大な綿あめでもってつり合わせているような、その独特のバランスが凄い。
そういったバランスが多分に、論理的にでも計算づくでもなく、感覚的に積み上げられていて、いささか差別的な言い方になるが、実に女性的な漫画だと思った。
「枕草子」が当時、女性にしか書けなかったように、こういう漫画というのはおそらく、男性にはなかなか描けない。
その感覚的な部分というのは、本質的には言語化と相容れないものであって、私なんかの言葉が追いつかないのも、それと無関係ではないと思われる。
私はとにかく「ツチノコ捕獲大作戦!」が大好きで、何度も何度も読み返した。
それは多分、これが「したたかな女の子と情けない男の子」、両方の本質を鋭敏に貫いた話だったからだろう。
幻想を見るのも夢に破れるのもいつも男の方よね、というひとつの本質を、あり得ないくらい的確に、これ以上ないくらいミニマルに、悲劇と喜劇の完璧なバランスの上で成立させた、離れ業的な傑作である。
これ以上に素晴らしい短編漫画のラストシーンを、他にほとんど知らない。
主人公が悪漢である、という漫画は、特別に珍しくもない。
しかし、それが料理漫画となると話は別だ。
料理漫画の主人公は、料理を美味しく食べてもらいたい、純粋・素朴・爽やか系のキャラが普通だ、というか、そうであるべきだろ。
審査員にマジック_マッシュルームを食べさせて幻覚を見せ、謀略によって対戦相手を陥れ、「料理は勝負だ!勝てばいいんだよ!」などと叫ぶ山猿のような面構えの悪漢が主役を張る料理漫画なんて、そうそうあるはずがない。
何が凄いって、この漫画には、五番町霧子と小此木タカオがいることだ。
名門料理店の志高き跡継ぎと、料理は素人だが好感度は抜群の好青年。
普通の料理漫画なら、この二人のどちらかを主人公にする。
しかし、その二人を蹴散らして、秋山醤(ジャン)、なのである。
何だよそのチョイス。
しかし、秋山醤、この異端児が、たまらなく魅力的である。
それはもちろん、彼が作る料理の抜群のインパクトも理由ではある。
羊の脳味噌を使った茶碗蒸しだの、鳩の血の卵だの、読んだのは十年以上も前なのに、醤が「魔法」とうそぶいた料理の数々は、今でも鮮明に思い出せる。
ちなみに、この漫画の料理には、突飛ではあるが、決して出鱈目ではない、と思わせる説得力があり、その点もポイントが高い。
また、脇役がパリッと立っていることも大きい。
前述の霧子や小此木もあるが、凄まじいのは蟇目檀や五行道士といった悪役の造形で、彼らの存在によって、醤がきちんとヒーローになれている部分は大きい。
毒をもって毒を制す。
そして、賢明な読者であれば、気づく。
どれほど口と態度と性格が悪くても、醤もまた、料理を愛しているのだ、ということに。
ただ、例えば霧子とは、その愛し方が違うだけなのだ。
例えば素行と発言は最悪でも、リアム・ギャラガーが、確かに音楽を愛していたように。
料理漫画としては完全に異端だが、私は、最も好きな料理漫画である。
「りんごの村」に婿入りした主人公が村の禁忌を知らずに破ってしまったことで、妻が生け贄(的な何か)にされることになり…というストーリー。
閉鎖的な村の伝承と因習を紐解いてゆく展開はちょっと横溝正史的というか、ある種のミステリーであり、民俗学をバックグラウンドに据えた舞台装置は、なかなか魅力的であった。
だが、そのミステリーの「着地点」は、犯人がどうとかトリックがどうとか、そういうことにはなり得ない。
何しろ相手は超自然であって、神様みたいなものだから、「解決」なんてあるはずがない。
どうしたってミステリーがファンタジーの文脈へと回収されてゆくわけで、そのあたりの落としどころをどう定めるかという部分には結構、注目していたのだけれど、これはもう、見事という他なかった。
そして、忘れちゃいけない、本作はラブストーリーなのだった。
ミステリアスで、ファンタジックで、でも何より、ラブストーリーなのだった。
共同体の中で揉み消され、「なかったこと」として忘れ去られていった愛は、逆らいようのない運命に踏み潰され、吹き散らされていった愛は、昔も今も(それこそ決して「物語」にはならない次元で)掃いて捨てるほどあったのだろう。
しかし、因習にも運命にも命をかけて抗って、文字通り全てを失う覚悟で守ろうとした、優しくて穏やかだけれど、苛烈で壮絶なその愛の発露に、私は泣いた。
私の大好きな映画「セブン」と似ていた、というか、似すぎていた。
悪く言えば模倣、よく言えばオマージュ。
私は、好意的に受け止めたい。
漫画として、とても面白かったから。
基本的な作品のトーンやモチーフは「セブン」を踏襲しつつ、パリッとオリジナルな部分も光る。
そして、ところどころで、とても「映画的な」表現がある。
特に(ネタバレギリギリだが)、「彼氏」のシーンや「背中」のシーンなんかは、映像化することを念頭に置いて描いたのではないかと勘繰りたくなるくらい、しびれた。
映画の表現を、漫画に活かす。
それは、手塚治虫がやったことでもある。
余談だか、その「背中」のシーンは実写映画版ではカットされており、何やってんだ制作者、とひどく失望した。
読んでいて気分のいい漫画ではなかったし、人に薦めようとも思わない。
しかし、これほど壮絶な作品には、ほとんど出会ったことがなかった。
半自伝的な漫画なのだと思う。
イメージとして(浅野いにおはこういう形容を気に入らないかもしれないが)、私は太宰治を想起した。
ちなみに私は、太宰が嫌いである。
書けない作家の苦悩、というモチーフだと、私は「バートン・フィンク」という映画が大好きなのだが、あれは、コーエン兄弟が作家としての自意識をかなりオブラートというか、創作の衣に包んで提示した作品なのだろうと思う。
作家はそれで正しいのだと私は思うし、私のそういう趣味みたいなものは、太宰を嫌う理由と無関係ではないと思う。
だが、本作で浅野いにおがやったことは、その百倍あからさまで、激烈である。
それは、自意識を作家性の中で表現する、というレベルの行為ではなく、血だらけになりながら紙面に自意識を塗りたくるような営みであったように思う。
浅野いにおは、この漫画を描きたくて描いたわけではない気がする。
描くべきだと思ったわけでもない気がする。
ただ、描くしかなくて、描いたのではないか、と。
私は、そんなふうに思った。
ラスト近く、サイン会のシーンで、主人公の漫画に救われたと涙ながらに語る熱心なファンに対して、「君は何にもわかってない」と主人公は言う。
これほど絶望的で、これほど美しいシーンをほとんど知らない。
私は何となく、浅野いにおはこういう描き方をしない(ないし出来ない)作家だと思っていた。
きっと私も、「何にもわかってない」読者の一人なのだろう。
ただ、浅野いにおが本作で試みたことが、勇気などという言葉では表現できない、命がけの行為であったということだけは、わかっているつもりだ。
だから、もう、それだけで。
浅野いにおの試みが、成功したのか、失敗したのか。
それは作家としての飛翔だったのか、墜落だったのか。
その是非も価値も、私はもう、問わない。
「スタンド」というアイテムにしても、漫画としてのある種異様な表現方法にしても、「ジョジョ」というのがもう、ひとつの発明であって、これがなければ生まれてこなかった、という作品はたくさんあるのではなかろうか。
そういう意味では、優れたパイオニアであり、同時に決して追いつけない完成品でもあるという、稀有な傑作だと思う。
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